# インブリー事件 ## 概要 1890年5月に[[第一高等学校]]の学生が波羅大学(のちの明治学院)のアメリカ人宣教師[[👤ウィリアム・インブリー]]に重症を負わせた事件。 この事件の背後には、明治政府の極端な欧米化主義に対する反動があると言われている。[[第一高等学校|一高]]の応援席には当時[[第一高等学校|一高]]生だった[[👤正岡子規]]が観戦しており、日記に事件の様子を書き残している。 ## 詳細 ### [[第一高等学校|一高]]の「籠城主義」 事件発生の理由のひとつに「籠城主義」という[[第一高等学校|一高]]独特のキャンパスカルチャーがあったという。 [[第一高等学校|一高]]では日本各地から集まってきた国家エリートたちが下宿などをして東京の庶民と交友し、世間の退廃的な文化に触れて堕落するのを危惧し、学生全員を寄宿舎に入寮させていた。さらに学生たちに自治を任せ、寮での濃厚な人間関係をもとにストイックに学友たちと交流し、人格を陶冶していくことを求めた。これが「籠城主義」である。 籠城主義の価値観では校内は聖地、校外は汚濁の地であるので、学校に入ってくるには必ず正門を通らなければいけない、ということになっていた。ところが[[👤ウィリアム・インブリー]]は試合を早く観戦したいがために正門を通らずに生け垣を超えてグラウンドに入ってしまった。それを見咎めた[[第一高等学校|一高]]生たちが無礼だと激怒し暴行に及んだのである。 ### 後の影響 この事件について、校内では[[第一高等学校|一高]]ベースボール部が弱いせいでこんな事態になったという声が高まったという。これを機にベースボール部員たちは校名を汚さないために猛練習に打ち込むようになる。 当時の日本における野球プレイヤーの大多数の感覚が「エンジョイ勢」だったなか、学校の名誉をかけて猛練習する[[第一高等学校|一高]]ベースボール部だけが「ガチ勢」となり、対外試合で連戦連勝の無双をするようになる。 1896年には横浜に居留していた外国人チーム「横浜外人倶楽部」との試合に挑みここでも大勝を果たした。この試合が新聞の一面で「我が学生の大勝利」として報道されたことで世間の注目を集め、これが大きなきっかけとなって中学生以下の世代で野球という舶来のスポーツへの関心が高まった。 ## 関連ノート - [[📘『文化系のための野球入門 「野球部はクソ」を解剖する』]] ## 関連リンク - [インブリー事件 - Wikipedia](https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%BC%E4%BA%8B%E4%BB%B6)