# カールの戴冠 ## 概要 西暦800年12月25日、[[📍サン・ピエトロ大聖堂]]でフランク王国の[[👤カール大帝]]がローマ教会の教皇[[👤レオ3世]]からローマ皇帝として戴冠した出来事。 西ヨーロッパに[[ローマ帝国]]以来の皇帝が復活し、フランク王国とローマ教会の結びつきが強まるとともに、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)とは異なる西ヨーロッパ世界の政治的・宗教的秩序が形成される契機となった。ローマ以来の古典古代文化、キリスト教、ゲルマン人の文化が融合した西ヨーロッパ中世世界の成立を象徴する出来事とされる。 ## 詳細 ### 戴冠までの経緯 レオ3世は前年の799年、反対派貴族による襲撃を受けてローマから逃れ、カール大帝のもとに保護を求めた。カールは軍勢を率いてローマ入りし、レオ3世をローマに復帰させた。その後、レオ3世はカールをローマ皇帝として戴冠した。 戴冠には、カールによるレオ3世への支援に対する謝意だけでなく、ローマ教会とフランク王国が結びつきを強め、東ローマ帝国に対抗するという政治的意図もあった。また、当時の東ローマ帝国では女帝[[👤エイレーネー]]が統治しており、西欧ではローマ皇帝位が空位になったとみなす考えもカールの戴冠を正当化する論拠の一つとなった。 ### 戴冠の意義と影響 カールの戴冠による意義は政治的・宗教的に次のように整理できる: - 政治的には、フランク王国が西ヨーロッパにおける独自の皇帝権を確立し、東ローマ帝国と並ぶ政治的勢力として位置づけられた。 - 宗教的には、ローマ教会とフランク王国の結びつきが強まり、ローマ教会が東ローマ帝国に依存しない西ヨーロッパでの地位を強めた。 西方のフランク王国と東方の東ローマ帝国という二つの政治的・宗教的勢力が並立することは、後の西ヨーロッパと東ローマ帝国の関係と、キリスト教世界の東西分裂にも繋がる長期的な対立の背景の一つとなった。 また、カールの戴冠は「教皇が皇帝を戴冠する」という前例となり、後世の教皇権と皇帝権の関係に影響を与えた。やがて中世には、教皇と皇帝のどちらが上位に立つのかという問題が顕在化し、[[叙任権闘争]]などの対立につながった。 ## 関連リンク - [カールの戴冠について|地歴公民|苦手解決Q&A|進研ゼミ高校講座](https://kou.benesse.co.jp/nigate/social/a13y0206.html) - [カール大帝 > カールの戴冠 - Wikipedia](https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%A4%A7%E5%B8%9D#%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%81%AE%E6%88%B4%E5%86%A0)