# 2025-03-01 [[📘『ゴロツキはいつも食卓を襲う フード理論とステレオタイプフード50』]]を読む
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> ![[📘『ゴロツキはいつも食卓を襲う フード理論とステレオタイプフード50』#概要]]
## 感想
### 特技で語る創作論
同じフィクションに触れていても、人それぞれ、目につくところや気が付くポイントは違ってくるものだ。
それまでに積み上げてきた鑑賞歴によって、ある演出技法のパターンやステレオタイプ表現(より格好つけて言えば[[クリシェ]])も、見出されたりされなかったりする。
本書はお菓子研究家の[[福田里香]]さんが、映画や漫画などの画像的なフィクションにおいて多用される食べ物にまつわるステレオタイプ表現を[[ステレオタイプフード]]として紹介するエッセイ集である。
人間、生きていく以上、食からは逃れられない。必然的にフィクションの登場人物も劇中でものを食べたり飲んだりするわけだが、そこには先人が作り上げてきた効果的な表現や演出がある。それを[[フード理論]]という創作論としてまとめ上げる。
### [[ステレオタイプフード]]の紹介
本作の目次がずばり[[ステレオタイプフード]]の一覧となっている。
50項目とかなり多いため畳んでおく。下のCiteをクリックして展開して見ていただきたい。
>[!cite]-
> ![[📘『ゴロツキはいつも食卓を襲う フード理論とステレオタイプフード50』#目次]]
このノートでは個人的にお気に入りの[[ステレオタイプフード]]を4つ取り上げたい。
#### フード三原則
[[ステレオタイプフード]]の紹介に入る前に、キャタクター描写の基礎として[[フード理論]]を3つの原則にまとめた[[フード三原則]]を確認したい。
![[フード三原則#^principles]]
これらの原則は万人が意識的にも無意識的にも心の奥底に抱え持つフード倫理に根付くものであり、この原則に沿うこと、あるいは時に裏切ってみせることで、キャラクターの印象を誘導できるという。
多くの[[ステレオタイプフード]]はこれらの原則を具体化したものと言えるだろう。
#### 賄賂は、菓子折りの中に忍ばせる
甘いお菓子には陰と陽、ふたつの性質がある。
陽の性質は「かわいくて、ふわふわとしたわいない、毒にも薬にもならない、人畜無害のもの」。この場合キャラクターの善良性、健全性を強調したい場合に添えて登場する。
陰の性質は「抗いがたい誘惑、我慢できない欲望、滴り落ちる快楽、目も眩む陶酔」。この場合キャラクターの俗悪制、不健全性を強調したい場合に添えて登場する。
時代劇の一大[[ステレオタイプフード]]演出として、商人がいわゆる「山吹色のお菓子」を悪代官に渡して「お主も悪よのう」と笑い合う、というものがある。
このとき、「山吹色のお菓子」とは二重底になっている菓子折りの下に敷かれた小判のことであり、つまりは賄賂なのだ。
これは甘いお菓子の陰の性質を活用している。
生死に関わるような切実な食べ物でないお菓子は嗜好品。しかも甘いお菓子は食べすぎると体に毒であり、ある種の常習性を伴う。堕落とはいつも隣り合わせだ。だから誘惑や欲望、快楽、陶酔といったもののアイコンにぴったりなのである。
#### 朝、「遅刻、遅刻……」と呟きながら、少女が食パンをくわえて走ると、転校生のアイツとドンッとぶつかり、恋が芽生える
日本の学園ラブコメの定番シチュエーションであるが、その初出は分かっていない。
著者の調べでは1989年の[[📕『サルでも描けるまんが教室』]]で食パン少女が登場する。ただしこの時点で食パン少女はすでによくありがちなパターンとして紹介される。
そして[[📺️『新世紀エヴァンゲリオン』]]の最終話でパロディされたことで完全にステレオタイプとして定着したという。
食パンを咥えて走るというのは、その少女がまだ恥じらいを知らない無邪気な子供であること、お転婆さを表現している。
このとき食パンは「私はまだ恋を知りません」という名札を口から下げているようなもの。まだ色気よりも食い気の時期。
だから曲がり角で転校生とぶつかって食パンを落とすという表現は、無邪気な子供が恋を知り、乙女になる瞬間を鮮やかに切り取っている。ここから食い気よりも色気へ、少女から女性へと移行するのである。
#### マグカップを真顔でかかえたら、心に不安があるか、打ち明け話がはじまる
お客様用のカップ&ソーサーが「揃い」で購入されるのに対し、マグカップは不可抗力的に集まった「バラバラ」集団であることが多い。
- ぞんざいに扱っているのに割れないから、別に気に入っていないけど、結局何も考えずに毎日使っている
- 高いお茶碗も持っているけど、結局いつもこれでお茶しちゃう、手に馴染むし、たっぷり入るから
このような評価で私たちの何気ない日常生活にすんなり溶け込んでいる存在でもある。
そんな日常生活の象徴であるマグカップを真顔でかかえた人物を目にしたとき、鑑賞者はどう思うのか。ここでの著者の書きぶりが結構お気に入りなのでそのまま引用しよう。
>[!quote]
> マグカップを真顔でかかえる、という絵面を観たまま解釈すれば、「器に注いだ温かい飲み物を飲んでいる人」だが、そうではないことは、すでにみなさんご存知のはず。マグカップが象徴するのは、平凡な日常だ。マグカップを真顔でかかえる、という絵面は、日常を失うかもしれないという不安や秘密に耐えかねて、手放したくないと無意識にマグカップにすがっている人の図であり、寒気がするのは体じゃない、温かい飲み物を飲んで温めたいのは、本当は心なんです、ということを表現しているのだ。
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> 引用:[[📘『ゴロツキはいつも食卓を襲う フード理論とステレオタイプフード50』]]
#### 美人についうっとりみとれると、調味料をかけすぎる
美人は人の注意力を散漫にさせる。
調味料をかける、という行為は意外と注意力を必要とする動作だ。だから美人にみとれて調味料をかけすぎてしまうのは致し方ないことである。
しかも調味料をかけすぎたことに気づくことなくその食べ物を口にしてしまうと、美人にみとれて夢心地なその人は、辛・酸・苦・甘・渋といった強烈な刺激によって現実へと引き戻されることになる。つまりかけすぎた調味料には目を覚まさせるという効果があるのだ。
そして、ここでやっと自分が、突然目の前に出現した美人に心を奪われ惚けていたということに、はじめて気づくのである。
この、時間差で気づくというのがポイントのように思う。
(調味料をかけながら)美人を目で追い続けるということは、画面にその美人が映る時間を引き伸ばすことに繋がる。しかもその後のオチもしっかりと用意されているし、そのオチが登場人物の心情の変化を示してもいるのだ。ステレオタイプになるのも納得の、考え抜かれた展開である。
## 情報
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