# 2025-09-06 [[🎞️『ふつうの子ども』]]を観る
## 感想
劇場で鑑賞。

### ふつう
[[👤呉美保]]監督の前作[[🎞️『ぼくが生きてる、ふたつの世界』]]はとてつもない傑作だった。そんな彼女の新作ということで楽しみにしていた一作である。[[📍テアトル新宿]]で舞台挨拶付き上映に足を運んだ。
『ふつうの子ども』。近年「普通」という言葉に難しさを感じる機会は多い。とりわけ人物の性質に対して用いる際には注意が必要だ。この話題については[[🎞️『正欲』]]などの映画を思い出すが、もちろん作り手もその言葉のセンシティブさを百も承知で付けたタイトルだろう。
本作が掲げる「ふつう」とは、映画を中心としたフィクションにおいて描かれる「子ども」の描き方から脱し、リアルに目にするようなありふれた姿を指すのだろうと思った。
だから「ふつうの子ども」というこの文字列は映画のタイトルというよりも、この企画の目標の表明なのではないだろうか。
### 環境活動かイタズラか
映画の中心は三人の子どもたち。
映画の始まりとともにマンションから出ていく**唯士**([[👤嶋田鉄太]])を主人公に、彼が気になっている環境問題に熱心な女の子**心愛**([[👤瑠璃]])と、クラスの問題児である**陽斗**([[👤味元耀大]])の三人が「環境活動」に奔走する物語だ。
唯士は心愛に思いを寄せる。
しかし心愛は環境問題に興味津々。目標とする人物はずばり劇中でも映像が引用される[[👤グレタ・トゥーンベリ]]だ。
だから唯士も環境問題の本を読むことで心愛に近づこうとするのだが、そこにイタズラ好きで行動力のある陽斗が心愛に対して「何か変えたいならば行動に移そうよ」と誘ったことで、三人は過激(?)な活動に身を投じることとなる。
唯士は心愛と陽斗の距離が近くてやきもきしてしまう。だからなんとか心愛を振り向かせようと彼女の活動に付き合う。
心愛は本心から環境問題に一石を投じたい。だから提案することがどんどん過激さを増していく。
陽斗は大掛かりなイタズラができてただただ楽しい。
そうしたモチベーションで繰り広げられる彼らの活動がなんとも楽しそうに描かれるところが本作の魅力だ。
それはキッズ映画として眺める分には微笑ましい。しかし、その目的に目を向けなければやっていることは大掛かりな子どものイタズラであり、それに巻き込まれる側からすればたまったものではない。
現状を変更するためには行動が必要だ。それも大きな変更を目指すためには過激な行動が必要なのであり、それは度々社会と衝突する。
昨今の環境保護団体やフェミニスト、ヴィーガンなどの現状変更を目標に活動をする集団に対する世間の反感はだいたいこの衝突に由来すると思われる。
これで相手が大人であれば衝突を避けるべく無視するか、正面からぶつかりに行って徒労感を味わうかだ。度が過ぎていたら国家権力に任せる他ない。
しかし、相手が子どもとなるとより配慮が必要だ。取り返しのつかないところへ突っ走らないために無視するわけにはいかないし、さりとて大人が正面からぶつかりに行くなんてもっての外である。情操教育はかくも難しい。
そう、それが難しいことだとみんなが分かっているからこそ、本作のクライマックスには緊張感がある。
ある事件を起こしてしまった三人とその親が小学校の会議室に集められる。担任の先生([[👤風間俊介]])が話を進める上で三家族との間合いを読み合う様子も笑えるが、何と言ってもこの緊張空間を支配するのが心愛の母親([[👤瀧内公美]])だ。
その佇まいに思わず[[🎞️『でっちあげ 殺人教師と呼ばれた男』]]で[[👤柴咲コウ]]が演じた母親を連想した。ゾッとする冷たい表情にキビキビした発声、「話を進めますよ」と校長が告げても延々と心愛に耳打ちし続けるあの話の通じなさそう感。心愛に対する接し方と、陽斗の小さな弟に対するリアクションの違いから見るに、自分が理想とする子育てに失敗したという自覚があるのだろうと思った。自分の子どもに対する興味を失っているのだ。
そんな地獄のような現場に周囲の大人はタジタジ。そんな中、勇気を振り絞って心愛に対する想いを語る唯士の姿に心愛も、観客も救われる。
### キッズ・ノワール
本作は明確にキッズ映画であるが、その物語構成には[[ノワール]]映画の型が用いられている。主人公である唯士は[[ファム・ファタール]]である心愛に惹かれたことによって、ある意味で事件に巻き込まれてしまう。
特に中盤、彼らの活動が学校にバレ始めた頃にしばらく自粛しようと提案するも、心愛に「やる気あんの?」と凄まれるところなんてまるで犯罪映画のようだ(彼らの活動は犯罪なのだが)。
巻き込まれ型[[ノワール]]といえば主人公の困り顔。もちろん唯士演じる[[👤嶋田鉄太]]さんの困り顔もたまらなかった。
心愛に対する恋心も、周囲に迷惑をかける罪悪感も、ごちゃまぜになってずっと困り、迷い続ける。エンドロールが始まるその直前まで、本当に見事な困り顔だ。
[[ノワール]]の空気は、普通の生活を送る主人公を社会の闇へと<ruby>誘<rt>いざな</rt></ruby>う。
その子ども版である本作も「ふつう」の、つまり現実に生きる私たちの大半が少年時代に体験しただろう非行よりも、少しだけ逸脱してみせる。
そんなところはやはり映画でありフィクションなのだが、少なくとも唯士と陽斗のふたりは自らのやらかしに対する後始末――つまりは修羅場の場面で「ふつう」なリアクションしかできない。そこがかわいく、愛おしい。
一方で[[ファム・ファタール]]である心愛は最後まで[[ファム・ファタール]]らしい振る舞いを崩すことがない。
そこは本作の最もフィクションっぽいところだと言えるかもしれない。しかし、この年頃の男女の意識の差の表現として見ることができる気がする。
これはステレオタイプな見方であるという自覚もあるが、10歳という年齢は男児と女児の「子どもっぽさ」のギャップが最大化する時期ではないだろうかと思う。そのギャップこそが「誘う女」と「狂わされる男」という[[ノワール]]の香りを生じさせているのかもしれない。
### 舞台挨拶
舞台挨拶では[[👤呉美保]]監督に主演の三人が登壇。
[[👤嶋田鉄太]]さんの舞台度胸がお見事で「興行収入300億目指します!」「[[🎞️『国宝』]]超えます!」と恐れ知らずな発言を連発、微笑ましくもハラハラしてしまった。
また、[[👤味元耀大]]さんが撮影当時からの成長が著しかった。劇中での問題児ぶりが考えられない落ち着きを身に着けており、子どもながらにさすが役者だと感じた。
また、私の隣に座っていたお姉さんが三人に対して手を振る様子や、彼らの言葉に身を乗り出して頷く様子から映画関係者、ひょっとしたらどなたかの母親だったのではないかと思った。こちらも微笑ましく、より舞台挨拶を堪能できた。
## 情報
![[🎞️『ふつうの子ども』#予告編]]
![[🎞️『ふつうの子ども』#主要スタッフ]]
![[🎞️『ふつうの子ども』#関連リンク]]