# 2025-09-13 [[🎞️『海辺へ行く道』]]を観る(2回目)
![[ネタバレ#^warning]]
## 感想
劇場で鑑賞。

### 二回目の鑑賞にあたって
正直、今年一番やられた映画である。すぐに二回目を観に行ってしまった。
二回目の鑑賞にあたりより映画を堪能できるよう予習を行った。パンフレットを読み、原作漫画全3刊を読んだ。すっかり[[📕『海辺へ行く道』]]シリーズの不思議な魅力に虜となってしまった。
>[!check]
> 初回鑑賞の感想は以下に記した。
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> - [[2025-09-07 🎞️『海辺へ行く道』を観る]]
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> また、原作漫画の短い感想を以下に記した。
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> - [[2025-09-12 📕『海辺へ行く道』シリーズを読む]]
原作漫画を読んだことでこの映画化では一話完結の個々のエピソードをひとつの物語に編み直し、それに伴い複数の登場人物を合体して一人のキャラクターにするなどの翻案がなされていることを知った。
特に本作の根幹だと思っていた、舞台の町がアーティストの移住支援を行っているという設定が原作になかったことには驚いた。しかし、この改変により映画のテーマをより際立つものになったと確信した。
そんな翻案の妙を堪能しつつ、細かな原作要素の収集も今回の鑑賞の狙いである。
決して難しい映画ではないが、さりとて分かりやすい映画でもない絶妙な複雑さを宿した本作の世界に深く飛び込むたくなったのだ。
初回の感想ではなかなか言語化するのに苦慮したテーマについて、ようやく掴めたものもあった。今回はそこを語ろうと思う。
### 本物と偽物
主人公である**南奏介**([[👤原田琥之佑]])が美術部であることから、本作は「芸術」についての映画であるという一面はある。
しかし、より一般化して「本物と偽物」についての映画として観ることができると思った。
ここではその線で本作の各エピソードを見ていこう。
本作を観ていく上で重要な概念が[[ミメーシス]]だ。
奏介の先輩である**テルオ**([[👤蒼井旬]])は特殊メイクの技法である人物の顔に似せたマスクを作る。同じ素材でできているはずの肌と唇がそれぞれ異なる質感として表現できていることに驚く奏介にテルオは言う。
>[!cite]
> テルオ「表面的なかたちをただ写すのは、単なるモノマネ。モノの成り立ちかたを知って、別のモノでそれを表現する。それを『ミメーシス』って言うの」
>
> 引用:[[🎞️『海辺へ行く道』]]決定稿より
この[[ミメーシス]]について教わるくだりは原作に登場しない。映画化にあたり本作を読み解くための補助線として導入されたキーワードだ。
分かりやすいところは、奏介が創る絵画や造形物は現実に存在する自然、つまり本物からインスピレーションを得、それを模倣することで形作られる偽物である。
奏介が創る芸術作品がそうであるならば、[[👤横浜聡子]]監督が創る芸術作品――つまりこの映画にも一般化できる。例えば舞台である汐鳴市の景色はすべて小豆島にあるものをつなぎ合わせて作られた偽物であるといえる。
そして本作は「本物こそが良い」「偽物だから悪い」といった本物と偽物をめぐる価値判断を語ることはしない。ただただ、本物と偽物が交錯する小さなエピソードを数珠つなぎに見せるのだ。
#### 演劇部のエピソード
第三章の演劇部のエピソードでは、演劇に使う夜の砂漠の背景を奏介が描くも、そのビジュアルの奇抜さに演劇部の部長の**直人**は「なにこれ」と困惑を示し「描き直してほしい」と頼みこむ。
その様子を見かねた演劇部の脚本担当である**真帆**が直人につっかかる。
>[!cite]
> 直人「ラストシーンでこれはおかしいでしょ」
> 真帆「おかしくないよ」
> 直人「おかしいの! イメージ違うでしょ」
> 真帆「南くんのイメージでしょ」
> 直人「奏介は演劇のことなんもわかってないの」
> 真帆「わかってないからいいんじゃん!」
>
> 引用:[[🎞️『海辺へ行く道』]]決定稿より
監督である直人は本物の、具体的な背景画を求めている。しかし、この時点ではまだラストシーンの脚本を書きあぐねていた真帆にとっては、具体的な背景画よりも奏介が描いた[[ミメーシス]]の砂漠にこそ響くものがあったのではないだろうか。
実際この後、奏介は演劇のリハーサルで彼が描いた夜の砂漠の背景がそのままラストシーンで使われている様子を見学する。そこでは具体的な夜の砂漠を背景としていては作りえなかっただろう演劇(という芸術)に至ったことが暗に示される。それが偽物の、[[ミメーシス]]の力だ。
そんな風なことを台詞として発するでもなく、あくまで満足そうな直人と真帆の雰囲気から伝えてくるところが見事である。個人的に、サブキャラクターではこの演劇部の二人がかなり好きだったりする。
#### ほのかのエピソード
芸術から少し離れたエピソードを見てみよう。
奏介は美術部であると同時に(いつのまにやら入部させられていた)新聞部でもある。
同じく新聞部員である**平井ほのか**([[👤山﨑七海]])は芸術とあまり接点はない。写真を撮るもそれをアートとしてではなくジャーナリズムの道具として用いる。
そんな彼女は、老人介護施設の新人ケアマネージャーが老人たちを外に連れ出し、レクリエーションと称して虐待をしているようにも見える光景に遭遇する[^1]。
それを映像に収めた彼女は老人介護施設に突撃取材をしようと考える。しかしその映像は学校の教師に預けられてしまい、彼女の本意でないやり方でこの事件は収束してしまう。
不満を覚えたほのかは映像を預けた教師に詰め寄るも「中学生新聞だぞ」とあしらわれてしまう。ほのかが熱心に取り組む新聞部という活動は、プロのジャーナリストの[[ミメーシス]]であること、そしてジャーナリズムに付きまとう責任についての問題を突きつけられ、彼女は思い悩むことになる。
このエピソード自体は劇中ではここで終わる。しかしその直後に置かれたアゴハゼのエピソードが印象的だ。
夏が終わり、店じまいをしたランチ屋。いつもパラソルが刺さっていた小さな穴にいたアゴハゼをほのかが海へ返す[^2]。ごく狭い場所から海へと返すその行為は、今まさに狭い街でくすぶった彼女がその外側の広い世界へ出ていくことを暗示しているように思う。
きっと彼女はこの夏の経験をきっかけに本物のジャーナリズムに目覚めるのではないだろうかと私は思った。
#### それ以外にも……
これ以外にも「本物と偽物」というテーマに沿って語れそうなエピソードは数多く挙げられる。それぞれ言及していたら時間がいくらあっても足りないので、章ごとにこのテーマで語れそうなエピソードを並べておいて個人的な宿題としたい:
- 第一章「長いつばの女」
- スプーン曲げ
- 高岡刃物商店の包丁
- 静か踊り
- 第二章「夏の終わりのミメーシス」
- すずとおじいさんの再会
- ほのかの仮病と弟
- 第三章「どこかへ穴でもできたのかい」
- カナリア笛
- ケンと岡田万次郎
- 穴
- 人魚の彫刻
- 野獣とオブジェ
- 海の絵を描く奏介
以上、ここでは「偽物と本物」という線で本作のテーマを語ってみた。
この方向性でより解像度の高い解説がパンフレットに収録されている。[[👤古谷利裕]]さんによる「紛いものとミメーシス」という題のレビューだ。本作のテーマを掴みかねているならばそちらを読むことできっと得られるものがあるだろう。
### おわりに
短いスパンで原作漫画読了を挟んで二回目を鑑賞し、ここまで熱く語っていることからもわかるように、私は相当本作を気に入っている。
ほぼほぼ間違いなく今年のベストに挙げる一作となるだろう。もっとこの映画の不思議な空気にクラクラとやられる人が現れることを期待したい。
## 情報
![[🎞️『海辺へ行く道』#関連リンク]]
[^1]: このケアマネージャーのエピソードは原作にもある(『残暑物語』)。原作ではよりはっきりと虐待の雰囲気を強調していたのに対し、映画版では老人たちは楽しんでいるように見えるというバランスで描いている。この翻案がほのかの葛藤をより深め、映画全体のテーマにエピソードを接近させることに成功している。
[^2]: このエピソードも『残暑物語』にある。原作ではアゴハゼを海へ返す人物は**五郎**([[👤宮藤官九郎]])である。それをわざわざ五郎からほのかへ手渡しし、ほのかが返すという流れに変えたのは映画のテーマを解釈するうえで重要な改変である。