# 2025-10-08 [[📘『実存主義とは何か』]]を読む >[!quote] > ![[📘『実存主義とは何か』#概要]] ## 感想 ### 存か在か 「[[実存は本質に先立つ]]」。 [[実存主義]]哲学を一言で表した言葉であり、もっとも有名な[[👤ジャン=ポール・サルトル|👤サルトル]]のテーゼだ。 しかし私はこのテーゼの意味をずっと掴みかねていた。 なにせ「そんざい」を漢字で書くときに「存」と「在」の前後関係がどうだっただろうかと数秒考えてしまうのだ。だから「[[実存は本質に先立つ]]」とノートに書くとき、はてさてどちらの漢字だったろうと考えているうちに、この短い言葉の真意を見失ってしまう。 ……なんて、冗談めかして言ってみたところ、念の為に[[Obsidian]]に記録している本書のメモに対して検索をかけたら「実**存**」と書くべき箇所を「実**在**」と誤って記入しているのを発見。あぶない、あぶない。 そんなわけで「実存」という語の意味すらもあやふやなままでは「[[実存主義]]」という哲学概念の本質を理解することも危うい。 実際、批評文などで「本作は実存についての問いを投げかけ~」みたいな表現を前にしたとき毎回「[[実存主義]]」の語をググり、その場でなんとなく分かったような気がして、また次回この文字列と直面した際にググるといったことを繰り返してきた。これではいつまで経っても[[実存主義]]の語を自ら扱うことなどできやしない。 だからちゃんと[[実存主義]]を解説した書に当たろうと思った。その点、[[📘『実存主義とは何か』]]はタイトルからして相応しい。 哲学史的には[[実存主義]]は[[👤セーレン・キルケゴール|👤キルケゴール]]や[[👤マルティン・ハイデガー|👤ハイデガー]]あたりが源流らしいが、現在流通している「[[実存主義]]」は[[👤ジャン=ポール・サルトル|👤サルトル]]が著した本書によって広く普及したものだという。分量も100ページほどと、この手の原典的哲学書にしては取り組みやすいのもありがたい。 ### 本質とはクラスであり、実存とはインスタンスである [[📘『実存主義とは何か』]]のメインコンテンツは1945年10月に行われた[[👤ジャン=ポール・サルトル|👤サルトル]]の講演「**実存主義とはヒューマニズムである**」の文字起こしだ。 講演という性質上、それは市民への語りかけという体裁であり哲学書としては読みやすかろうと思ったものの、やはりある程度の哲学的語彙は必要と感じた。私もところどころ調べながら読み進めた。 ここでは「実存主義とはヒューマニズムである」でなされた「[[実存は本質に先立つ]]」という言葉について私がどういう理解に至ったかを記録したい。 「[[実存は本質に先立つ]]」というテーゼを理解するために、「実存」と「本質」の語が言わんとすることを掴めるようにしたい。 本書ではまずペーパーナイフの例えを用いてこれらの語を整理する。 ペーパーナイフのような物体は、その概念の姿形を頭に描いた職人によって造られる。職人はペーパーナイフの概念の一部をなす既存の製造技術(製造法)にたよってそれを造る。そしてペーパーナイフはその概念に内包される用途、すなわち封筒や雑誌の袋綴じを開くという機能を持つ。 これらの概念、つまりペーパーナイフを製造するための製法や、ペーパーナイフを定義しうるための性質、その全体がペーパーナイフの本質だ。そして、ペーパーナイフは「本質は実存に先立つ」といえる。現実に存在するペーパーナイフは、その本質から造られ、その本質の範囲で用いられるからだ。 この例え話から私にはひとつピンとくるものがあった。曲がりなりにも情報工学を学んできた職業エンジニアである私は、上記の説明に[[オブジェクト指向プログラミング]](以下[[オブジェクト指向プログラミング|OOP]])の発想と近いものがあると感じたのだ。 非エンジニアに[[オブジェクト指向プログラミング|OOP]]の説明をするのは骨が折れる上に、エンジニアの間でもその説明の仕方について喧々諤々の議論に発展しがちなクソデカ概念なのでざっくりニュアンスだけを伝えたい。ここでは「(特に大規模な)ソフトウェア開発を楽に行うための総合技術のひとつ」としておこう。 そんな[[オブジェクト指向プログラミング|OOP]]における最も基本的な概念が**クラス**であり、これと対になる概念が**インスタンス**である。 クラスにはある概念の共通する性質や振る舞いをまとめて定義する役割がある。たとえば「犬」というクラスを考えると、そこには「吠える」「歩く」「尻尾を振る」といった犬らしさが記述されている。 [[オブジェクト指向プログラミング|OOP]]ではこの「犬」というクラスから具体的な犬、すなわちインスタンス(実体)をつくる。そのインスタンスは名前が「ポチ」かもしれないし「ハチ公」かもしれないが、いずれにしても「吠える」「歩く」「尻尾を振る」といった「犬」クラスに記述された犬らしさを備え持つ。 どうだろう、先程のペーパーナイフの例え話と似てはいないだろうか。 [[📘『実存主義とは何か』]]ではペーパーナイフの例えの最後に「これは一種の技術的世界観」であると記述しているが、[[オブジェクト指向プログラミング|OOP]]も文字通りの技術的世界観だと私は感じ取った。 そして技術的世界観では「本質は実存に先立つ」のであった。[[オブジェクト指向プログラミング|OOP]]もまた「クラスはインスタンスに先立つ」のである。 このとき、実存/インスタンスは、本質/クラスによって**限定されている**という。実存はその本質からはみ出すことができないのだ。インスタンスがクラスに記述されていない振る舞いを実行できないように。 さて、ここに来てようやく「[[実存は本質に先立つ]]」に話が移る。 [[実存主義]]が問題とする対象は「人間の実存」なのだ。ここまでは人間ではないもの(ペーパーナイフ、犬)について考え、それらは「本質は実存に先立つ」ことを見てきた。しかし、人間の場合は「[[実存は本質に先立つ]]」のだ、と[[👤ジャン=ポール・サルトル|👤サルトル]]は宣言したのだ。 >[!cite] > 実存が本質に先立つとは、この場合何を意味するのか。それは、人間はまず先に実存し、世界内で出会われ、世界内に不意に姿をあらわし、そのあとで定義されるものだということを意味するのである。実存主義の考える人間が定義不可能であるのは、人間は最初は何ものでもないからである。人間はあとになってはじめて人間になるのであり、人間はみずからがつくったところのものになるのである。このように、人間の本性は存在しない。その本性を考える神が存在しないからである。 > > 引用:[[📘『実存主義とは何か』]] p.42 人間のクラスを[[オブジェクト指向プログラミング|OOP]]で実装できるプログラマは存在しない。人間の本性を考える神が存在しないように。 メモリ上に不意に姿を現した彼/彼女はどんなクラスにも準拠しない。だから彼/彼女は最初は何ものでもない。彼/彼女は自ら行為によってメソッドを定義し、自分、ひいては人間というオブジェクトの振る舞いを設計し続けなければならない。 一応は人間であるらしい[[こーしんりょー|私]]という実存/インスタンスも、やはり「人間」という本質/クラスに縛られない。私が先行してこの世界で振る舞うことで、その本質――価値や意味は後からつくられていく。 だから私は本質によって**限定されていない**。すなわち自由なのだ。ここで本書における二番目に有名なフレーズが姿を表す。「[[人間は自由の刑に処せられている]]」だ。 ### 私にとって自由といえば 繰り返しになるが人間は自由である。それは、よりどころとなる本質があらかじめ与えられていないということだ。 つまり私たちには自らの行いを正当化してくれる価値や命令といった逃げ道は存在しないのである。自分のなすことのすべて対して責任を負うことになるのだ。 「自由の刑」。自由であるということはポジティブなことに思える。しかし、否応なく世界へ投げ出され、自由に振る舞うことを強いられた瞬間、それはたちまち刑となる。 この言葉を目にしたときに真っ先に脳裏に浮かんだ作品があった。それは[[🎮️『Kenshi』]]だ。 >[!check] > ![[🎮️『Kenshi』#Kenshi - 正式版v1.0リリース日発表トレーラー]] > > 何百回というレベルで繰り返し視ているお気に入りにもほどがあるトレーラー。 [[🎮️『Kenshi』]]は非常に自由度の高いRPGで、作中に物語らしい物語は存在しない。 ゲームを始めてキャラクターメイキングが終わるとなんの導入もなくいきなり世界に放り出される。これといった指示もなく、色々と試しながらしたいことをして、軌道に乗ったかと思いきや野盗に襲われあっさりと野垂れ死ぬ、そんなゲームだ。「自由の刑」という言葉がこれほど相応しい作品はないのではないか。 私は[[🎮️『Kenshi』]]をプレイしているときに覚える==自分の足跡が物語になる==あの感覚がたまらなく好きだった。実は、それこそが[[実存主義]]の本質だったのではないだろうかと、身体の深いところで納得したのであった。 ## 情報 ![[📘『実存主義とは何か』#目次]] ![[📘『実存主義とは何か』#関連リンク]]