# 2025-10-28 [[🎞️『ブラックドッグ』]]を観る
## 感想
劇場で鑑賞。

>[!info]
> ![[🎞️『ブラックドッグ』#概要]]
### 荒野映画
良い映画というものは開始一秒で分かるものだ。
本作の舞台は中国、ゴビ砂漠付近の寂れた街。長い刑期を終えて出所してきた主人公・**ラン**([[👤エディ・ポン]])を乗せたバスが、広大な荒野を進む遠景ショットからはじまる。
荒野大好き人間な私はこの時点でガン上がり。[[シネマスコープ|シネスコ]]の横に広いスクリーンいっぱいに収まらない広大な荒野の美しさにうっとりしていると、突然、手前から数十匹の野犬がバスに向かって駆けていく。大量の犬が横切り、ハンドルを切ろうとしたところでバスは横転する。正直、どうやって撮影したのか想像もつかないショットだ。
主人公のランは寡黙でほとんど台詞がない。序盤は彼がどのような存在なのか周囲の反応から察するしかない。
どうやら出所したばかりで、事件を起こした地元に帰ってきたらしい。そして彼は元々それなりに周囲から知られた人物だったようだ。
それくらいしか分からないランをカメラが追っていくと、彼の家族のこと、かつての事件のこと、この寂れた街のこと――それらの情報が徐々に明かされていく。
派手なことはほとんど起こらないけれど、寡黙さゆえのミステリアスさが観客を引き込んでいき、ついにタイトルにもなっているやせ細った黒犬と出会う。
### 男、黒犬、寂れた街
舞台であるランの生まれ故郷は「寂れた」という表現がこれ以上ないほどぴったりな街である。
人の住んでいないコンクリートマンション、客のいない動物園――そうしたロケーションがその寂れ感を際立たせる。2024年制作の映画でありながら、そこに映るのは発展途上の中国の風景で、映画を観ただけではどこまでが実景でどこまでがセットなのかも分からない。まるで時間が止まったかのよう。
時代は2008年、北京オリンピックの年。この国家的イベントを梃子として、再開発の話が囁かれている。
ランとこの街は、どちらも鈍い時間の中を生きているという点で似ている。
かつてはバンドマンとしてそこそこ名の知れた存在だったランは、服役のきっかけとなった事件を起こしたことで自らの時間を止めてしまった。もう一人、彼が死なせてしまった男の伯父もまた、その日から前に進めていない存在として登場する。
だが、当然ながら時間は彼らだけのものではない。死期が迫るランの父親や巡業する雑技団といった他者の存在に触れて、ランも時計を進めざるをえない。
そして、彼の時計を本当に動かすこととなる決定的な出会いが件の黒犬だ。
街に溢れた野犬たちを捕獲する公共事業の中で出会ったその犬もまた、ランと似ている。
黒犬が象徴する危うさや罪性、孤独な強さといった要素はランにも通じる。
映像でもランが立ちションをした場所に続いて黒犬が小便をするショットを挟むことで二者の共通性を示す。そして何より、両者とも社会の厄介者である。
そんなランと黒犬がとある事情で一緒に暮らす中で、やっとランが笑顔を見せるシーンが中盤に訪れる。それまでの陰欝とした雰囲気から脱してホッとする瞬間であった。
### 時計を動かす
ときに、人は独りでいると身体の時間を止めてしまうことがある。
私自身、抑うつ傾向があり引きこもり体質なので、何度か社会から逃げだそうとした経験があり、その感覚を知っているつもりだ。
そうならないための特効薬のひとつが相対的な時間が隣にあること、すなわち他者の存在である。
ランにとっての黒犬、そして街にとってのオリンピック。外圧といえば言葉は悪いが、止まっているよりかは動いていたほうが幸福が生じる可能性は高まる。
そうと分かっていても動き出せないのが人間の<ruby>性<rt>さが</rt></ruby>というものである。だが、たまにこうした静かな映画を通して自らの身体時計の進みを意識させられることがある。
似た感覚を覚えたのは、[[🎞️『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』]]を鑑賞したときだった。あちらは妻の事故死をきっかけに自らの時間を止めてしまった男が、周囲の物を破壊するという行為を通して身体時計を取り戻そうとする話だった。そして奇しくも、どちらの映画も鑑賞した場所は来年1月に閉館が決まっている[[📍新宿シネマカリテ]]である。
時間が進めば街も変わる。別れには悲しさを伴うが、時計が進んでいるからこその別れであり、寂れたままではその悲しさも味わえない。
映画としても、テーマとしても美しいこの映画に見事にやられたのであった。
## 情報
![[🎞️『ブラックドッグ』#予告編]]
![[🎞️『ブラックドッグ』#主要スタッフ]]
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