# 2025-11-01 [[🎞️『ミーツ・ザ・ワールド』]]を観る
## 感想
劇場で鑑賞。

>[!info]
> ![[🎞️『ミーツ・ザ・ワールド』#概要]]
### 「好き」で他人を救えるか
[[👤松居大悟]]監督作は[[🎞️『くれなずめ』]]以降、多くはその年の年間ベスト級に好きになった作品が多い。年代の近さもあってか問題意識などに近いものを感じており、ざっくり「20代・30代のための青春映画」とでも呼べる傾向もあって、ターゲットとしてズバリ捉えられているようである。
しかし今年先行して公開された[[🎞️『リライト』]]がそこまでハマらなかったので本作はどうだろうかと思っていたが、結果としてはまたもやぶっ刺さりであった。
>[!check]
> 監督の「らしさ」は強く感じるも、脚本家の個性も炸裂しており個人的に好みなポイントが分散させられたように思える一作。楽しい映画だけどね。
>
> [[2025-06-21 🎞️『リライト』を観る]]
個人的には昨年の[[🎞️『不死身ラヴァーズ』]]と地続きにある作品のように思った。
ある対象を「好き」になる衝動、それにより引き起こされる胸の鼓動、私の心臓はそうやって動いている=生きているという感覚。[[🎞️『不死身ラヴァーズ』]]はそのことをやりすぎなくらい(この「やりすぎ」感も[[👤松居大悟]]らしさでもある)ストレートに描いてみせた。
対して本作は27歳で恋愛経験ゼロの腐女子である**由嘉里**([[👤杉咲花]])と、希死念慮を抱くキャバ嬢の**ライ**([[👤南琴奈]])の交流を通して「好き」が生じ、由嘉里はなんとかライを死なせまいと行動していく。
[[🎞️『不死身ラヴァーズ』]]では「好き」が自分を生かした。その「好き」の自分勝手さで周囲に様々な迷惑をかけながら(そしてそんな迷惑すらもトータルで肯定してみせる[[🎞️『不死身ラヴァーズ』]]が私はたまらなく好き)。
そこで今作[[🎞️『ミーツ・ザ・ワールド』]]では一歩踏み出して「好き」で他人を救えるか、という問いを投げかけてくるのだ。
### 異世界人を好きになることに長けた私たち
これまでの人生の大部分で漫画やアニメに傾倒してきた腐女子の由嘉里にとって、ライを中心とした歌舞伎町の住人はみんな異世界人のように思われる。
私の解像度の低さからそう感じるのかも知れないが、BLを愛好することは「愛される」という欲求を満たすものではなく、由嘉里もまた「愛される」ことへの未知なる感覚を抱えているように見える。
したがって、歌舞伎町の住人たちが見せる他者に愛し・愛されることに重きを置く世界観に、異国の香りを感じているのではないだろうか。
そして二次元オタクとはそんな異世界人を好きになるのが得意なものだ。
次元の異なる、フィクションという別の摂理に立脚した人物たちに今日も心を狂わされている。ちょくちょく挟まる由嘉里の発狂オタク仕草あるあるも、本作のコメディとしての魅力だ。
そんな由嘉里とライの出会いは合コンで惨敗した直後。
飲み潰れて朦朧としたなか、声をかけてくれたライの顔を見て放つ「あなたみたいな顔に生まれていたら」という願望は、まさに愛された経験のなさに対する自覚から発せられたセリフだ。
このセリフを起点にライは「300万円あげるよ(だから整形でもしな)」と告げて、まるで捨て猫を拾うかのように由嘉里を家へ連れて行くという導入である。
二次元オタクのキャラクターに対する愛は基本的に一方通行なもの[^1]だ。どれだけ愛を傾け、その愛を表現するアクションをしてSNSにアップしたとしても、愛を向けている相手(二次元のキャラクター)から直接「私」に愛を向けられることはない。
だから愛することばかりうまくなってしまう。もうちょっと露悪的に言ってしまえば、==ある対象を愛していると周囲にアピールすることばかりうまくなってしまう==。
私なんかはそれに反抗するように「自己投影型エロゲーマー」を自称[^2]して、「(主人公ではなく)私がヒロインに愛される」という物語を自己生産する芸[^3]を鍛えることで、なんとか生きながらえている。
由嘉里がライに向ける愛も、由嘉里にとってはそれが一方的なものであるという自覚が見られる。
観客もまた、ライが何を考えているかがほとんど描写されないためにその愛が一方的なものであるように思える。
しかし、たとえそうだとしても、魅力的なこの二人の関係がなんとかうまくいきますようにと観客が願う最中にある事件が起こる。……その顛末は映画をお楽しみに。
### 異世界人もまた人間
事件のあと、久しぶりに自宅に帰ってきた由嘉里と母親([[👤筒井真理子]])とのなんとも言えないやりとりが印象的だ。
腐女子であることを母親には隠しているつもりではあるけれどたぶん気づいているだろう、という認識の由嘉里は、荷物だけをさっさとまとめて出ていくつもりだったが、母親にしつこく問い質される。どこで・だれと住んでいるのか、仕事はどうなのか……嫌気がさした由嘉里は逃げようとするも、「あんたの好きなアニメのことを教えて」と一歩踏み込まれる。
ここに来て、由嘉里は自分とライの関係と、母親と自分の関係とが相似形であることに気づいたのだろう。加えてこの関係において自分の立ち位置がまるで逆になっていることも。
「愛する」ばかりで「愛される」ことに慣れていない自分であるけれど、確かに「愛される」側に立つコミュニティ(=親子)が自分にもあったのだとそこで気づくのだ。
この気づきによって間接的に、憧れであったライや歌舞伎町の住人たちといった、ぜんぜん自分とは違う世界観を持つ他人もまた、同じ人間であると思い至る。愛されるってこういう気分なのかと。
由嘉里にとって、先述したある事件を理解するためにこの気付きがもっとも重要であったのだと私は思う。なかなか痛いやりとりではあるが、本作を観た後に、明るく前を向いて劇場を出られるのはこのシーンあってのものだ。
私は[[📍新宿バルト9]]で本作を鑑賞したが、古めかしく観える[[スタンダードサイズ|アカデミーサイズ]]で記録された現代の新宿を堪能した直後の夕空の新宿を、それは大変に美しく思えた。
## 情報
![[🎞️『ミーツ・ザ・ワールド』#予告編]]
![[🎞️『ミーツ・ザ・ワールド』#主要スタッフ]]
![[🎞️『ミーツ・ザ・ワールド』#関連リンク]]
[^1]: まれにメタ的な仕組みを駆使してその一方通行を飛び越えようと試行するコンテンツもある。しかし、それもまた事前に仕込んだ第三者(作者)を媒介してやっと実現できる愛の伝達でしかない。
[^2]: 
[^3]: もちろんそれすらも「ある対象を愛していると周囲にアピールすること」である。