# 2025-11-22 [[🎞️『旅と日々』]]を観る
![[ネタバレ#^warning]]
## 感想
劇場で鑑賞。

>[!info]
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## 構造の映画
脚本を書く女([[👤シム・ウンギョン]])。彼女がハングル文字で記す脚本がそのまま映像となってスクリーン上に展開されるはじまり。「構造の映画だ」と直感した。
最初は脚本家の姿とその映像化が交互に映されるが次第に映画は劇中劇に集中する。
海辺で出会った若い男と女の静かな交流を描くこのパートは、海辺の街を美しく切り取るショットの連なりに惚れ惚れし、孤独を弄ぶ男([[👤髙田万作]])と女([[👤河合優実]])の関係の行く末に惹きつけられる。
しかし、それは不穏なショットを最後にこれが劇中劇であることを思い出したかのように、映写される映画学校の講堂へと、つまり現実へと帰還する。
ぐぐっとドラマへの集中力が持続していたところで唐突に現実へと戻されるショック感は、メタ構造を持つ作品ならではのものだ。
映画学校の生徒たちがこの劇中劇を撮った監督の脚本家へ質問する様子が映され、この劇中劇が本作の原作のひとつとして挙げられている[[📕『海辺の叙景』]]の映画化であることが語られる。
それから一悶着あって後半、脚本家が雪積もる温泉街へと旅をする姿が描かれる。ここからはもう一つの原作である[[📕『ほんやら洞のべんさん』]]のパートだろう。
主人公が泊まる宿とその主人([[👤堤真一]])とのやりとりのおかしみから作中の空気がユーモアへと振れていく(劇中の台詞で実際に「ユーモア」と言及され、それが起点となっているように見える)のだが、この辺りから前半パートとの対比構造が浮き彫りになってくる。
映画と現実、夏と冬、海と山、雨と雪、若者と大人――意図的に真反対な映像が繰り広げられる。しかし、語ろうとしているものはどちらも同じ「孤独」についての思索であると感じた。
## 言葉を知るほど世界は狭くなる
そんな対象的な前半と後半を繋げる役割に徹する中盤で、主人公が旅行をする動機が語られるモノローグが印象的だ。
その内容を私なりに要約すると、言葉を知るほど世界は狭くなる、ということだ。
韓国から日本という異なる言語の国に訪れ、脚本家という言葉を用いる仕事をする彼女は、旅によって見聞を広げながら、それでも言葉に追いつかれてしまう感覚があるという。
世界の広さとは、まだ未知の部分がどれだけ残されているかということだ。ある現象や物体が言葉によって説明可能になることで「私」は大きくなっていき、その分「世界」は狭くなっていく。
だから新たな未知がまだ在ることを確認するために人は旅をする。
そうして出かけた先で出会った男との奇妙な時間はほどよく未知を垣間見せ、それでいて危険すぎないスリルもあって、この世界もまだまだ捨てたものではないと感じさせるエピソードだった。
ラスト、一人になった彼女のモノローグは韓国語で語られる。日本人鑑賞者からすると、急にスクリーンに字幕という文字情報が現れる形だ。
役者が声に出して演じるとどこか説明臭くなってしまいそうなセリフも、意味の取れない言語の字幕として提示されるとその言葉の美しさにハッとさせられる。これも計算のうちなのだろうか。
## 情報
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