# 2026-01-03 [[📘『ヴィクトリア朝時代のインターネット』]]を読む
## 感想
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### インターネット
本書のタイトルには「インターネット」とあるが、もちろんヴィクトリア朝時代、すなわち19世紀に厳密な意味での「インターネット」は存在しない。そこで、そもそも「インターネット」とは何なのかを簡単に振り返ってみる。
歴史的には、それは軍事研究、大学間ネットワーク、商用利用といった段階を経て、数十年かけて拡張されてきた情報通信網である。ただし、どこか一時点を指して「この段階からがインターネットだ」と線を引くことは難しい。
技術的には、それは[[インターネット・プロトコル・スイート|TCP/IP]]プロトコルを用いて接続された「ネットワークのネットワーク」であり、中央集権的な管理者を持たず、だから単一の装置やサービスとして存在しているわけでもない。インターネットとはあくまで通信を成立させるための構造と約束事の集合体だ、くらいでしか定義できない。
こうして見ると「インターネット」という言葉自体がはじめから曖昧な概念であることがわかる。
それでは本書のタイトルに掲げられた「インターネット」とは一体何なのか。それは[[電信]]である。
本書は19世紀に発展した情報通信技術のひとつである電信の発生、期待、貢献、そして凋落を「インターネット」と重ね合わせようと試みる一冊なのだ。
### 技術は変われど人は変わらず
私が初めてインターネットに触れたのは小学生の時だった。
まだまだ行動範囲が狭い、すなわち「小さな世界」の内側にいたその時に、まったく知らない他者と情報を通して繋がることのできるツールに触れてえらく興奮した。
だからこそ現在の職に就いているともいえるくらい、インターネットの存在は私の人生に大きなインパクトを与えたと言える。
世界のどこかにあるサーバーからいつでも瞬時に情報を取得できるという機能を通じて、色々と悪いことをしたり、微笑ましいロマンスを演じたりしたことがあったかもしれない(なかったかもしれない)。
そんな人間的欲望を満たすことができるようになったのは、インターネットが当時の私の所属する「小さな世界」からでもその外部へと一瞬で到達できるように、世界そのものを小さくしたからだった。
そして、そんな衝撃は20世紀後半に初めて達成されたものであるという感覚を無意識に持っていたような気がする。
電信なる技術があることは歴史ものの小説や映画を通して知ってはいた。しかし現実にそれに触れる機会はなく、まさかこの電信が19世紀の時点ですでに海の向こうの誰かへ即座に情報を伝えられたということを想像できていなかった。
なんといっても感覚をバグらせるのが海底ケーブルの存在だ。電信がおよそ1830年代に技術的に形となり、1840年代中盤から普及しはじめる。そして1850年代に海底ケーブルが様々な場所で実験され、ついに1858年8月には大西洋を横断する海底ケーブルが敷かれる。[[👤トーマス・エジソン]]の白熱電球よりも早いというのだから感覚がおかしくなる。
こうして海を超える通信網ができたことで人がやることは、現在とさして変わらないということを描いているのが本作の科学史ノンフィクションとしての面白さだ。
特に「**第7章 コード、ハッカー、イカサマ**」と「**第8章 回線を通した愛**」はそのままインターネットについて語る書籍の章タイトルとして見てもまるで違和感がないだろう。今も昔も、世界が小さくなった時に人がやりたくなることと言えば、悪いこととロマンスなのだ。
## 情報
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