# 2026-01-04 [[🎞️『エディントンへようこそ』]]を観る ## 感想 劇場で鑑賞。 ![Xユーザーのこーしんりょー@SpiSignalさん: 「『エディントンへようこそ』観た。他者が何を考えているかは分からないし、誰と誰が繋がっているのかも分からない。こんなちっぽけな街ですら何も分からないのだから、理解を放棄して分かりやすい物語、たとえば歌番組の時間と日付と歌詞の一致に意味を見出してしまうのも仕方がないのかもしれない。」 / X](https://x.com/KO_SHIN_RYO/status/2007642429219057850) >[!info] > ![[🎞️『エディントンへようこそ』#概要]] ### 2020年代のはじまりはコロナ禍 [[コロナ禍]]の間、誰もが「何が正しいのか」がさっぱり分からないまま暗中模索していた。 マスクは、ワクチンは、ロックダウンは、はたして正解なのか。我々庶民はもちろんのこと、専門家の間でも意見が割れているようなマクロな問題においそれと回答を出すことはできない。極端な狂人以外は。 従って誰もが答えに窮する問題を前にしたときに存在感を示すのが「こっちだ!」と自信満々に旗を振る者だ。 彼らがなぜ自信満々でこれらの難問に答えを出せているのかさっぱり分からないが、十中八九「ここでポジションを取るのが有利」という状況に合わせて行動しているだけであり、彼が出した答えに根拠を求めてはいけないと思う。 普通、人は何も分からない状態、宙ぶらりんな状態、すなわちサスペンスへの耐性がない。そこから引っ張り上げてくれる言説を自信満々に説く人がいたらついて行ってしまうものだ。そこで根拠が重要視されることは少なく、そのことに批判されることもあるが基本的に旗振り役は一定の支持が得られる。 ここ五年ほど、そんな光景を飽きるほどに見てきた。主に[[𝕏]]で。 やはり[[コロナ禍]]の影響は大きかったと思う。誰も明確な答えを持ちえない難問が同時世界的に発生し、そこで改めて「根拠はなくとも旗を振る」ことの強みが可視化されたのだ。 その強みはあくまで個人的なポジションを取ることへのメリットでしかなく、その行動の多くは世界を良い方向へと導かない(寧ろ悪い方向へ導くことがほとんど)。 そして、根拠のなさがウィークポイントであるならば、根拠をどこかから調達すれば良いとなる。こうして陰謀論が幅を利かせることとなるのであった。 2020年代も後半へと差し掛かったが、今のところこの十年間は「陰謀論がその力を強めた期間」として記録されることになるのではないかと思う。 ### 2020年代前半を駆け抜ける 本作[[🎞️『エディントンへようこそ』]]は、まさにそんな2020年代の前半の空気感を、その起点である[[コロナ禍]]を舞台に駆け抜ける一作である。 本作がどこか不穏な空気をまとっているのは、監督が[[👤アリ・アスター]]だからというのみならず、そもそも本作が描く2020年代前半という時代が不穏そのものだからかもしれない。 本作の事件の発端はマスクだ。市長の**テッド**([[👤ペドロ・パスカル]])はロックダウンを宣言して屋外でのマスク着用を要請する。 しかし喘息持ちの保安官**ジョー**([[👤ホアキン・フェニックス]])はマスクを付けていたら呼吸ができないとそれを拒否する。言い合いは喧嘩に発展し、その勢いでジョーは次の市長選への出馬を表明することとなり、対立が決定的になる。 対立する陣営が現れるとSNSを通した攻撃合戦がはじまり断絶が加速するのは2010年代からの傾向だ。 対立は怒りを生み、怒りは人を呼び、人はその対立に乗ったり距離を取ったりしつつもフェイクニュースやヘイトスピーチといった燃料を投入する。こうして対立はブレーキの効かない暴走機関車となり、致命的な事故が起きるまで走り続けることとなる。まんまこの映画のプロットそのものだ。 本作における事故の第一段階はジョーがテッドの過去を暴露し、それに対する反論がなされるところだろう。ここで行われる二回のビンタによって、一旦の決着がついたとも言えるし、同時に事故の第二段階への引き金になったとも言える。 この後、ジョーは逃げるように車に乗って街を走るのだがそこで道路を逆走する。[[👤アリ・アスター]]映画における車移動と言えば[[🎞️『ミッドサマー』]]におけるホルガ村へと向かう道中の天地逆転があり、この逆走はそこから始まる惨劇を予感させる。 クライマックスでは銃社会アメリカらしい、武器による混沌が街を覆うことになる。 本作はこれまでの[[👤アリ・アスター]]映画のように「ホラー」を謳ってはいないが、それでも「人を殺すためのエネルギーの塊」である重火器による人体破壊描写は本作でも健在。[[🎞️『ボーはおそれている』]]の第一幕のような意味不明な混沌と暴力が繰り広げられ、最後は母的存在にすべて持っていかれるところも含めて[[🎞️『ボーはおそれている』]]のやり直しのようにも見える。 2020年代のちょうど半ばに公開されたこの映画には、2020年代前半の[[👤アリ・アスター]]の仕事もしっかり内包されているように思った。 ### 他人と過去は変えられない 「[[他人と過去は変えられないが、自分と未来は変えられる]]」という、アドラー心理学系の自己啓発本で幾度と擦られた有名な言葉があるが、本作を観ている間ずっとこの言葉が脳裏に浮かんでいた。 ずばり、「過去を変えられない時点で詰みでは?」という思考が鑑賞中ずっと頭の中をグルグルしていたのであった。 映画は、基本的にその映画が描こうとする世界のある時点、すなわち途中からはじまる。映画が始まった瞬間にその世界の過去は確定していて、すでに導火線に火は点いていた。映画の中でどれだけ足掻こうとその火は消すことができず、観客は爆発するその瞬間を待ち構えることしかできない。自分と未来を変えられたところで、何ができる? 本作はそんな運命論的なペシミズムに引きずり込まれる。 思わず、[[スズキタゴサク]]の憎々しい顔が浮かんだ一作であった。 >[!check] > アメリカ映画のペシミズムの化身としての[[👤アリ・アスター]]と、2025年のペシミズムの化身としての[[スズキタゴサク]]。 > > - [[2025-11-16 🎞️『爆弾』を観る]] ## 情報 ![[🎞️『エディントンへようこそ』#予告編]] ![[🎞️『エディントンへようこそ』#主要スタッフ]] ![[🎞️『エディントンへようこそ』#関連リンク]] [^1]: [[🎞️『ミッドサマー』]]の本国公開は2019年。日本ではコロナ禍が本格化する直前の2020年2月に公開されて大ヒットした印象が強いため、2020年代の映画感がある。